
神⼾元町牡丹園別館のメニューには、作家の陳舜⾂さんの漢詩が載っている。
その陳舜⾂さんの⼩説ではなく随筆といっていい『神⼾ものがたり』は名著だと思う。
私の⺟は、神⼾花隈の出⾝で、私も⼩学校以前から⻑期の休みは神⼾に滞在して、いろいろな思い出がある。この本はそれらのことを思い起こさせる。

海と⼭が傾斜地でつながる神⼾の利点に幕末にいち早く気がついたのは、この地に神⼾海軍操練所を拓いた勝海⾈であった。
花隈は花街。幕末から明治にかけての兵庫の花柳街は柳原で、映画評論家の淀川⻑治さんの実家は、⻄柳原の料理屋兼置屋の⼤家であった。だから⼤正時代以降に花街の勢いが柳原から花隈へ移ったことを「あんたんとこの花隈ができて、うちの⻄柳原がダメになったのね」と⽪⾁に⾔われた。
幕末の柳原では、桂⼩五郎や坂本⿓⾺、⾼杉晋作、⻄郷吉之助、後藤象⼆郎、久坂⽞瑞らが英気を養ったと陳舜⾂は書いている。桂⼩五郎が、柳原で遊⼥お蔦と浮名を流したのは有名な話だそうで、私は京都の幾松との関係は知っていたが、お蔦は知らなかった。
花隈城は、近頃、⼤河ドラマ『豊⾂兄弟!』や⿊沢清監督の『⿊牢城』でよく知られる荒⽊村重が築城した。
物⼼のついた60年代後半には、⽯垣だけが残っていて、⺟によるとこの城跡に戦中には防空壕があったらしい。その後、70年の⼤阪の万博を境にして駐⾞場完備の花隈公園として⽯垣が整備された。
花隈中央通の坂の中ほどに、浄⼟宗福徳寺があって、⾨前に天守閣跡の碑が⽴っている。中央通をさらに上ったところに、⽂具店と電気店があって、ここが⺟の⻑兄と次兄の店であった。通りの⻄向かいに福島の⼋百屋があり、その横の道を⻄へゆくとうどんの「つるのや」、その向かいに散髪屋と⾵呂屋が並んでいた。「つるのや」のきつねうどんは、⼤好きだったが、⼩学⽣の⾼学年ぐらいに潰れた。散髪屋は、チョビ髭の頑固な爺さんが店主でその息⼦がベレー帽をかぶって、ダスティン・ホフマンに似ていたので、ダスティンと呼んでいた。福島の⼋百屋は、⾷料品店と⾔った感じで、ここの⾼級紅鮭はそうそう⾷べられなかった。
⺟の実家は⼀応⻑兄のほうの⽂房具店で、戦前から祖⽗が芸妓相⼿の化粧品店を営んでいて、祖⽗の妹が芸妓でその置屋のようなこともしていたという。
花隈には1896(明治29)年11⽉25⽇〜12⽉1⽇にエジソンのキネトスコープが⽇本で初めて公開された神港倶楽部があった。神⼾の空襲で焼失したのだが、⺟は建物に⼊ったことがあるという。その神港倶楽部があった道路を隔てた東向かいに、料亭の花隈治作があった。⽔だきが名物。⾨の傍に⼤きな「吃驚⼟瓶」があり、⽊々が鬱蒼として⽞関まで⽯畳が続き、庭園には池もあった。つきじ治作の⽀店。この庭にあった百日紅の木が現在も堺の弟の家に植わっている。
恐らく⺟親の実家の化粧品店は、戦前とは場所が違うと思う。近所は芸妓や男衆が歩いていたという。私にはその記憶はない。
⺟が⾔うには、⽯原裕次郎が北原三枝と結婚する時期には、花隈に潜伏していて、なぜか店の前に裕次郎と三國連太郎が⽴っていて、背が⾼かったと話していた。
私が⼩学⽣の時代、電気屋の使いで近所の家へ電球だか電灯の交換に⾏ったら、神棚の左右に⼩さな提灯がサーッと並んでいて不思議な気がした。TVで観る清⽔の次郎⻑宅のようだ。後から考えると置屋だったのだろう。
幼稚園ぐらいの時には、その電気屋の3階の窓から裏の家を⾒ると、⿊塀で⾨前に深い溝がある⽇本家屋があった。邸宅だと思っていたが、あるいはお茶屋だったのかも知れない。⼩学校に上がったぐらいに取り壊され、幾つもの区画の⼩さな住宅地になった。
神⼾の弁天さんといわれる厳島神社という⼩さな神社もあり、網に囲まれた⼩さな池に居るカメをよく⾒に⾏った。

同じく裏側には、和菓⼦⽼舗「播磨屋」があったが、近年廃業した。
花隈中央通の⼭側の果てには、雰囲気のある⽇本基督教会の神⼾教会の建物と隣接する塔があった。現在の会堂は、昭和7(1932)年に建⽴されたらしい。

隣接する教会が経営するいづみ幼稚園は、従弟が通っていてお迎えに⾏ったことがある。
反対に花隈中央通りの海側の果ての右側に70年の⼤阪万博のあとぐらいにローソンが出来た。この頃のローソンは、カウンター横にハンバーグやサラダ等の⾼級なデリカテッセンのようなコーナーがあった。その後コンビニ⼤⼿になったローソンとは異なり⾼級感があった。
花隈には任侠組織の事務所もあり、関係がよく分からないが、電気屋の前あたりで発砲事件があった。
花隈公園の真下のJR⾼架下には、少し⼤きな駄菓⼦屋があって、⼿軽な玩具も売っていて、プラッスチック製の⼿錠などは⼩学⽣には魅⼒的だった。⼣⾷⽤に⾼架下のお⾁屋の店屋物でビフカツなどもよく買いに⾏った。
ここは、駄菓⼦屋から道路を挟んで⻄側の⾼架下。⺟によると⾼架下には映画館もあったという。これは知らなかった。陳舜⾂の著作にもそのことが書いてある。また、古いブラウン管テレビを何台も積んでいる店もあった。⼦どもには少し怖いような通りであった。
その頃の夜の花隈には神⼾港から汽笛が聞こえて来たものだ。雰囲気があった。今は聞こえない。
